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日記、雑記、時々ペイント

「不運なめぐりあわせにしがみついてる事自体不運なのさ」

テレビで引っ張りだこのカズレーザーを見る度に某ハードボイルドな宇宙海賊を思い出して「ヒューッ!」となる一方で、「運とは何ぞや」と思うことがある。

少なくとも目に見えるものではないので「こちらが運でござい」と用意することもできない。それでも何となく人々の間で共通の認識がある不思議な物質(?)である。

財布に何か入れてると金運が上がるとか、今年の春は恋愛運が高まるコーデで決まりとか、商売としてなのか善意の塊なのかは不明だがそういう紹介をよく見る。朝のニュース番組でも大々的に星座占いを放送しているし、1位と12位が発表される前に家を出なきゃいけなくて「早くしろー!間に合わなくなっても知らんぞー!」と思ったりもする。

「運命の出会い」というロマンチックな単語もあるが、少なくとも自分自身の行動は物理法則に従っている。靴紐をしっかりと結んですぐほどけるということは無いし、家の扉も金属疲労が起きていないのに壊れるなんてことは起きない。

相手方も朝遅刻したのは前日の脳があまり休まらなかったからだし、パンをくわえて走るのも普段から朝食がパンというルーティーンをこなしているだけに過ぎない。そんな二人の歩行速度・走行速度を計算すれば、曲がり角でぶつかるのは必然である。

※飲食しながら走るのはマジで危険なので止めましょう。

自分では操作できない相手の行動を運と呼んでも、その相手も物理法則に従っている以上は必然の積み重ねであり、更にその前も物理法則に従ってるので極論「宇宙誕生から全て決まっている事象」とも言える。かといって、家族や友人が交通事故で亡くなったとしてそれを「前から決まってた」と割り切りたくはない。

つまるところ、運不運は実体が無い以上、自分の気の持ちようで変えられる「舞台装置」なのだと思う。大げさに捉える必要も無いし、場合によっては運に任せることで気を楽にすることもできる。

何より人生が全部決まってちゃ面白くないし、そうだとすれば意地でも覆したくなるのが天邪鬼たる自分である。

それでもその『運』てやつに負けてしまったらどうするか?

 

ヒューッ!